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| 【11/02/21】下から読んでください。
セルジオ越後が「評論文」、松木安太郎が「感想文」。 posted at 14:50:09 あああ。とてもよく分かってしまいました。RT @jai_an: これはどう? エライ人の感想文が〈評論〉。無名の人の評論が〈感想文〉。RT @FukushimaKokugo: 「思い」なのか「考え」なのかという観点で対比すれば、感想文の反対語は評論文。 posted at 13:42:26 「思い」は心。「考え」は頭。 posted at 13:36:41 「思い」は一択。「考え」は二択以上。 posted at 13:36:01 「思い」なのか「考え」なのかという観点で対比すれば、感想文の反対語は評論文。「自分の思いや考え」の有無という観点で対比すれば、感想文の反対語は説明文(解説文)。 posted at 13:34:01 たしかに、どちらも「自分」にこだわってますからね…。RT @jai_an: 違いがわからない(苦笑)RT @FukushimaKokugo: 評論文ではないでしょうか。RT
@jai_an: 素直に聞きたいんだけど、「感想文」って反対語は何?RT @ posted at 13:16:01 評論文ではないでしょうか。RT @jai_an: 素直に聞きたいんだけど、「感想文」って反対語は何?RT @福嶋:…必然的に生じてくる「感想」…RT @jai_an: でも感想文だから何を書いてもいいというものでもない。アホほど「自分の意見」を言いたがる。
… posted at 13:07:31 書かれていることがらから必然的に生じてくる「感想」がある…。RT
@jai_an: でも感想文だから何を書いてもいいというものでもない。アホほど「自分の意見」を言いたがる。 RT @福嶋:解釈の前に感想を求める。それがいわゆる「感想文」。求めるべき順序が逆。 posted at 13:02:56 解釈の前に感想を求める。それがいわゆる「感想文」。求めるべき順序が逆。 posted at 12:53:57 解釈のないところに、感動は生まれない。 posted at 12:47:28 多読でないのなら精読。それは「感じる」ものではなく「考える」もの。RT @-----:
「多読」ではなく、「この本はしっかりと内容を感じ取って欲しい」と思う良書もありますが、そのような本に関してはどうでしょう。RT @ 「多読」としての読書なら、読ませっぱなしでいい。 posted at 12:46:16 「多読」としての読書なら、読ませっぱなしでいい。RT @-----: なるほど・・・。でも「本を読む」ということは国語教育では大切だと思うのですが、読後に何かさせたほうがいいのでしょうか。RT @FukushimaKokugo 感想文には根拠が要らない。 posted at 12:38:05 感想文には根拠が要らない。本文のここに、こう書いてある。この記述とこの記述をもとにすると、こういうことが考えられるのではないか。…といった「論」を展開するのならよいが、それは「感」「想」文では無理。 posted at 11:56:00 指導も評価も困難だから。RT @-----: そうなんですか?!なぜですか??RT @FukushimaKokugo: 感想文なんて書かせても、ろくなことはないよ。少なくとも、それは国語教育でやることじゃない。 posted at 11:49:05 感想文なんて書かせても、ろくなことはないよ。少なくとも、それは国語教育でやることじゃない。 posted at 11:20:54 いま芦田先生 @jai_an が審査なさっているというのは、これ http://ow.ly/4054Z か…。正直、「感想文」という時点で、どうかなあ、と思う。「明治時代の偉人に挑戦!」って書いてあるのも、「諭吉は正しい」とかいう「感想」がきちゃう一因ではないですか(苦笑)…。 【11/02/14】下から読んでください。 【11/02/15】補足。私は二重カギのついた『学び合い』については一切触れていない。あくまで私の実体験をもとに書いた一般論。カギつきの方々が「我々は違う」と思う節があるのならそれで結構。自分の道を行けばいいじゃないか。 以上、「学び合う・教え合う」形での授業の問題点についての連続ツイートでした。 posted at 00:47:24 ところが、「教え合う・学び合う」授業では、そのような個別評定はほとんど行われない。授業中、教師は子どもを眺めているだけだから、そんなことできるはずがないのである。これを授業放棄と呼ばずしてなんと呼ぶのかと思う。 posted at 00:46:11 授業単元の終わりごとに行ういわゆる市販テスト(業者テスト。色刷りの、テストっぽいテスト)なんて、単なる長期的評価にすぎない。ましてや通知表など、長期的過ぎてほとんど意味がないに等しい。評価というのは、毎授業毎授業の評価を積み上げて行うべきものだ(入試における「評価」は別として)。 posted at 00:43:03 私はかつて45分間の算数の授業の中で、最低でも2回は、子ども全員にノートを持ってこさせた。ノートを見るのは1人1~2秒。それでも、個々の子の到達度を瞬時につかめる。いわゆる机間巡視では漏れが出るから、2回程度はちゃんと持ってこさせる。その程度の即時個別評定は、教師の当然の仕事だ。 posted at 00:39:26 授業における評価というものは、即時・個別評定であるべきだ。授業開始から5分後10分後15分後に、個々の子がどの程度理解でき、あるいはできていないのかを、教師はいつも把握していなければならない。ところが、「教え合う・学び合う」授業を行う教師には、そのような観点がそもそも皆無に近い。 posted at 00:35:15 「教え合う・学び合う」形で行われる授業の場において、教師は多くの場合、全体を眺めているだけだ。あの子はできたようだ、あの子はできなかったようだ。その程度の把握しかしていない。それでよいのか?それで、授業の到達度を評価できるのか?甚だ疑問である。 posted at 00:31:48 「教え合う・学び合う」形で行われる授業の中では、複数の「教える・教えられる」場面が生まれる。教師は、その一つ一つを把握しているのか。教えた子が、割り算の筆算を、どんな手順で、どのように教えたのか。教えられた子が、何を理解し、あるいは理解しなかったのか。それを、把握しているのか。 posted at 00:26:24 子ども同士を教え合わせる授業の場には、「時間内に理解できなかった」ことの結果責任を負う人物がいない。通常の授業であれば、それは教師が負う。たとえば「不足した内容を次の授業で確実にカバーする」、これが責任の取り方である。ところが、子どもが「先生役」をやっていると、そうはいかない。 posted at 00:23:36 「べつに時間をかけたっていいじゃないか」「結果的に理解できないままで授業が終わることがあってもいいじゃないか」――子ども同士を教え合わせようとする教師には、そのような甘い考えが巣くっている。 posted at 00:19:19 教師が1分でつまずきを見つけ最適なアドバイスをすることができれば、その子には大きなメリットが生まれる。その1分で理解した「解き方」なり「考え方」なりを使い、「次の課題」に取り組むことができるのだ。ただでさえ習熟の時間を取りづらい学校の授業の中で、これが失われるデメリットは大きい。 posted at 00:15:55 もし見抜くことができたとしても、それは相当な試行錯誤と時間をかけた結果である。「つまずきの発見と最適なアドバイス」は、教師なら1分で済む。子ども同士のやりとりでは、それに20分かかるかもしれない。40分かかるかもしれない。いや、多くの場合は、見抜けずに終わる。教えられずに終わる。 posted at 00:12:53 計算の苦手なBさんが、いったいどこでつまずいているのか。教師はすぐに見抜くことができる。1年生レベルの足し算・引き算でつまずいているのか。2年生レベルの九九でつまずいているのか。3年生レベルのかけ算の筆算でつまずいているのか。しかし、子どもはそこまで見抜けない。 posted at 00:09:02 四則計算の教育が、なぜ、足し算→引き算→かけ算→割り算の順序になっているのか。それを、教師は知っている。しかし多くの子は知らない。計算の得意なAさんが計算の苦手なBさんに割り算の筆算を教えようとするとき、そこに、そういう発想があるか?ほとんどの場合、ないはずだ。 posted at 00:07:46 たとえば、教師ですら教えるのが難しい「割り算の筆算」。綿密に組み立てられた手順で教えなければ、子どもを混乱させるばかり。それを、たかだか「計算が速い」程度の子に「教えさせよう」とすること自体、算数・数学の体系を無視した暴挙だ。 posted at 00:03:02 最近一部TLで盛り上がっているテーマに関して。これをアップしておきたい。 ~福嶋のメルマガログ【小学校教育が危ない!】No.22「できる子に他の子を教えさせる」という罪悪~ |