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        》》》 小学校教育が危ない! 《《《

       No.21  2006/8/23  著者:福嶋隆史

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         No.21 告白 そして 子ども礼賛

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 私は、この3月までは小学校教師だった。
 今は、独立して家庭教師をしている(塾に近い形態だが)。

 家庭教師になった今、小学校教師のときよりも一層、「子どもは可愛い」と
感じるようになった。
 おそらく、終始「個」対「個」の関係だからだろう。
 そして、ゆったりとした時間があるからだろう。
 その子の生活基盤である「家庭」に足を踏み入れ、場を共有しているから、
というのもあるだろう。

 まあとにかく。

 子どもは可愛い。
「可愛くない子」も可愛い。

 これが、今回の結論だ。

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 しかし、私とて人間である。
 いつも「博愛主義」の「聖職者」ではいられない。
 可愛いと思えない子もいた。

『子どもはみな可愛いけれども、ある子どもはなお一層可愛いものである』
 ハビエル・ガラルダ氏が、その著書『自己愛とエゴイズム』に書いていると
おりだ。
(そのハビエル氏は神父(聖職者)である。つまり、聖職者でも、可愛さには
 差がある、という事実を認めているわけだ)

 可愛い子。一層可愛い子。

 言い方を変えれば(一段下げれば)、
 可愛くない子。可愛い子。

 複数の子どもに接したことのある人間なら、誰しもそのような区別的感情を
抱いたことがあるはずだ。
 教師も、みな同じだと思う。
 ただし、教師は職業上、その感情をあくまでも胸にしまっておかねばならな
い。
 とはいえ、感情は感情である。消せはしない。

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 私も、その「2種類」を感じてしまうことがたくさんあった。
(これは、ある意味で勇気ある告白である)

 「悪ガキ」。超「悪ガキ」。超超「悪ガキ」。
 いじめっ子。いじめっ子の中のいじめっ子。あるいは、いじめの申し子。
 できない子。ひどくできない子。まったくできない子。
 だらしない子。行儀の悪い子。言うことを聞かない子。手が焼ける子。

 …彼らはおおかた、「可愛くない子」に分類されてしまう。
 そういう子がたくさん集まっているのが、公立小学校というものだ。
 そういう子をも「可愛い」と思える教師でなければ、教師としての資格に欠
けるといわざるを得ない。

 しかし私は、日々の多忙な学校生活を維持することに汲々として、そういう
「可愛くない子」を「可愛い」と意識する暇さえなくなってしまっていた。
 ちょっと精神的余裕があれば、その子の「可愛さ」を発見できたはずだ。

 どうでもいいような小さな紙切れを大事にしている悪ガキ君を見て、「そん
なもの、授業中にいじるのはやめなさい。何度言っても聞かないのなら、取り
上げて捨てますよ」なんて言ってしまったこともあった。
 しかし、ちょっと立ち止まって考えれば、その子がその紙切れ――妙な模様
のついた包み紙――に抱いている子どもらしい愛着に、気づいてあげられただ
ろう。
 そして、「なんだか可愛いやつだよな」と思うことができたはずだ。

 たったそれだけのことで、「可愛くない子」を「可愛い」と思えるようにな
る。
 うわべではなく、心から。
 子どもの無意味な行為、無秩序な言動、無邪気な笑顔……
 そういうものを愛せるようになるためには、時間的・精神的な余裕が欠かせ
ない。

 どんな悪行を働いている子だとしても、そのような子どもらしい可愛さを
秘めている。
 それに気づいて、その子に歩み寄ることこそ、大人の進むべき道だ。

 だが、現在の学校教師たちは、次から次へと押し寄せるイベント・行事など
のせいで、そのための時間的・精神的余裕を失っている。

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 ただ、そのイベントが逆に奏功する場合もある。
 私は、あるイベントで、「悪ガキ」君に怒鳴ることが多かった自分を心から
恥じた場面があった。
 それは、「宿泊体験学習」での入浴時。
 まだ未熟で小さなその裸の体を見たときだった。
「ああ……こんな小さな、こんな未熟な“子ども”を、自分はいつも怒鳴って
 いたのか」

 そしてその夜、子どもたちの部屋を見回るときにも、その子どもらしい寝顔
を見て、さらに恥じ入った。

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 子どもに対して攻撃的な感情を抱いてしまっているすべての大人は、その子
どもと風呂に入り、一緒に寝てみるといいだろう。
 人間としての愛情を、感じずにはいられなくなる。

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 福嶋が「愛」について書くなんて、おいおい、雪でも降るんじゃないか?
 ……そんな声が聞こえてきそうだが。
 私に言わせれば、私は、子どもへの愛を否定したことなんて一度もない。
 私の「教育技術論」の根底には、いつも子どもへの愛がある。

 たしかに、「悪ガキ」たちは、学級を崩壊させる。
 いじめを引き起こし、問題を深める。
 だから、それらを防ぐために、教師には統率力が必要になる。
 多くの教育技術が、必要になる。
 しかし、それ以前に、子どもを深く愛することこそが、一層不可欠であるこ
とは、言うまでもないのだ。

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 思えば私は、児童館・学童保育で子どもたちと生活してきた期間が長かっ
た。
 教師でいた期間よりも長かった。
 その中に、多くのスキンシップがあり、多くの人間的な感情交流があった。
 だからこそ今も、子どもを深く愛することができているのだと思う。
 児童・生徒である前に、子どもとして愛することができるのだと。

 だが、小学校教師として組織に背中を押されるうちに、多忙の中にその愛が
沈み、子どもたちを“しめつけて”しまったことも、多々あった。

 今、その沈んだものが、少しずつ浮き上がってきている。

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 再度書く。
 子どもは、可愛い。
 可愛くない子も、可愛い。
 どんな悪ガキも、同じ人間として、可愛い。

 子どもは、大人を、幸せにする。
 子どもは、社会を、幸せにする。

 もし、そう思えない人がいるとしたら、この文章を読んで腹が立つかもしれ
ない。
 福嶋に文句を言いたくなるかもしれない。
 しかし、そこはぐっとこらえていただきたい。

 私は、そういう文句を聞いたとしても、「いやあ、やっぱり子どもは可愛い
ですよ」としか答えようがない。

 それにそもそも、「悪ガキ」を生み育てたのは、大人(親)だ。
 悪く育ってしまったのだとすれば、親のせいだ。
 子どものせいじゃない。
 さらに言えば、その親を育てたのは、そのまた親であり、と同時に、この現
代社会だ。
 その現代社会を構築しているのは、われわれ一般の大人だ。

 要するに、すべての責任は、大人にあるのだ。
 それをさしおいて、子どもを責めるのは、傲慢不遜と言うものだ。

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PS
「小さきものはみなうつくし」(小さいものはどれも可愛い)
――清少納言のこの言葉は、私をいつも納得させる。


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