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》》》 小学校教育が危ない! 《《《
No.56 2007/3/21 著者:福嶋隆史
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No.56 諸悪の根源「自主性信仰」を正す
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【
目 次
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◆まえがき
(1)教師たちの自主性信仰を示す、馬鹿げた「こだわり」
(2)「学習指導要領」を正確に読むと、何が正しいのかが見えてくる
(3)自主性信仰の教師が犯す、見過ごせない「過ち」
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◆まえがき
このメルマガでは、毎回極めて具体的な現場の事例を挙げながら、小学校教
育を批正する主張を展開している。
しかし、あまりにも具体的すぎて、「何が“危ない”のか」の全体像がつか
みにくいのではないか、と危惧することもある。
そこで今回は、やや抽象的になるが、すべての問題の根本にある「自主性信
仰」について書いてみようと思う。
自主性信仰は、子どもに技能を育てない。
自主性信仰は、学級集団の秩序を乱す。
自主性信仰は、時間ばかりを浪費する。
自主性信仰は、子どもを不安に陥れる。
自主性信仰は、教育崩壊をもたらす。
その具体例は、これまで何度も書いてきた。
今回は、別のアプローチで書く。
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(1)教師たちの自主性信仰を示す、馬鹿げた「こだわり」
授業の計画を詳細に記したものが「学習指導案(細案)」である。
多くの教師が見学する<研究授業>の際には、これを必ず作る。
A4用紙で5枚前後に及ぶのが通常である。
この学習指導案作成は、2つの点で、教師にとって悩みの種となる。
第1に、指導案の内容。どんな授業を展開するか。
第2に、指導案の形式。どんな言葉、どんな文章で授業計画を表明するか。
重要なのは、無論、第1の方である。
しかし、多くの教師は第1を無視して第2にこだわる。徹底的に。
たとえば……
・「学習指導案」と書いてはいけません。「学習活動案」と書くべきです。
授業というものは、教師が主導するものではなく、子どもが活動しながら
創り上げるものです。
・「指導」という表現が多用されていますが、すべて「支援」に置き換えるべ
きです。
教師は「指導する」のではなく、子どもを「支え、援助する」役割に徹す
るべきです。
・「させる」という表現は、いかにも、子どもの意思に反して「やらせてい
る」感じがします。「するようにする」という表現に換えるべきです。
……などと。
どれも、馬鹿げた主張ばかりである。
書きながら首筋が寒くなったが、どれも「現場の事実」である。
教師たちは、研究授業前の「学習指導案検討会議」で、こんな議論を、延々
と30分、1時間とやっているのである。
勤務時間もとっくに終わった夜7時ごろになって、こんなことをグダグダと
話し合っている教師たち。
これは、決して虚像ではない。実像である。
そんなヒマがあったら、授業の「内容」を検討せよ、と言いたい。
授業に関連する本や教育雑誌の1冊や2冊くらい読め、と言いたい。
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(2)「学習指導要領」を正確に読むと、何が正しいのかが見えてくる
◆――指導要領の中に、<支援>という言葉は一度も出てこない!――◆
特に教師のみなさん。
この事実を御存知だっただろうか?
私は以前、文部科学省ホームページに掲載されている学習指導要領(全文)
に検索をかけ、「支援」の言葉を探してみた。しかし、一切見つからなかっ
た。
今も、念のためやってみた。当然、なかった。
そんなはずはない、と思う方は、ぜひご自分でどうぞ。
文部科学省HP 小学校学習指導要領
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601.htm
Ctrl+Fで検索ウィンドウが開く。そこに「支援」と入力すればよい。
そもそも、タイトルからして「指導」要領だ。
指導をするな、支援をせよ、なんていう教師は、その時点で「指導要領を無
視せよ」と言っているようなものなのである。
◆――あくまでも「能力を育てよ」と書かれているのである!――◆
これは全教科について言えることだが、分かりやすく「総合的な学習の時
間」を例にとる。
小学校学習指導要領の、「総合的な学習の時間」について書かれた項目を見
てみよう。
そのねらい(目的)として、
---->---->---->---->---->---->---->---->---->---->---->---->--
自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく
問題を解決する資質や能力を育てること。
<----<----<----<----<----<----<----<----<----<----<----<----<-
とある。
これを読むと、「なんだ、自主性を大事にせよって書いてあるんじゃない
の?」と思うだろう。
そう、確かに、そうだ。大事にするんだ。
しかし、この文章の結論は、前半じゃない。後半だ。
もう一度、読んでみていただきたい。
さあ、お分かりだろうか。
これは、
===「自ら見付けさせよ」「自ら学ばせよ」「自ら考えさせよ」……
===
と言っているのではない。
===「自ら見付け、自ら学び、自ら考えるための能力を育てよ」========
と言っているのだ。
両者は大きく違う。
「何でも自分でやらせよ」と言っているのではない。
「自分でできるようになるための能力を育てよ」と言っているのだ。
その能力を育てるためには、教師が授業を「主導」し、「基本型」を身につ
けさせ、繰り返し「練習」させ、「評価」するという過程が不可欠である。
その過程を、「指導」と呼ぶ。
作文、読解、会話、討論。
計算、数的操作、数学的思考。
走る、跳ぶ、投げる、打つ、泳ぐ。
……
これらすべてには、「基本型」がある。
何度でも書く。
「基本型」を身につけさせ、練習させ、評価すること。これが、指導だ。
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(3)自主性信仰の教師が犯す、見過ごせない「過ち」
子どもは、多くのミスをする。間違える。
それが、子どもというものだ。
さて、そのミスや間違いの「責任」は、誰にあるのだろうか。
「授業は教師が主導するものだ」と考えている教師は、子どものミスの責任
を自分に帰する。つまり、「自分の教え方が悪かったから、子どもができなか
ったのだ」と考える。
そして、授業方法を改善しようと努力する。
一方、「授業は子どもが自主的に創り上げるんだ」と美辞麗句を並べる教師
は、子どものミスの責任を、子どもに帰する。つまり、「子どものやり方が悪
かったから、できなかったのだ」と考える。
自分の授業方法を改善する努力など、一切しない。
そういう教師は、職員室で、子どもを馬鹿にした放言をする。
さながら、部下の失敗を「部下の勝手なミス」とするダメ上司にそっくりで
ある。
ついでに書くと、
授業方法を改善する教師のクラスの子は、当然成績が上がっていく。
だから、評定も上がっていく。
通知表には、Aが増える。
だが教師は、「子どもが頑張ったからこそですよ」と謙虚に語る。
一方、ミスを子どものせいにする教師のクラスの子は、成績が下がる。
評定も下がる。
通知表には、Cが増える。
そして教師は、「今どきの子どもがバカなんですよ」と傲慢に語る。
「親のせいですよ」という教師もいる。
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もう十分だろう。
今日は、ここまで。
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