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        》》》 小学校教育が危ない! 《《《

       No.18  2006/8/2  著者:福嶋隆史

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        No.18 教育現場の美辞麗句 ワースト5

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<目次>
◆ まえがき
◆ 本論
◆ あとがき
◆ 著者プロフィール
◆ 注
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◆ まえがき

 実は、筆者は最近体調がすぐれず、なかなかメルマガに時間をかけられてい
ない。
 今日も、もう深夜。早く寝ようと思いつつも……
 やはり、自ら設定した「水曜日の朝6時まで」という「締め切り」を守るべ
く、これから書く。
 自慢じゃないがこれまで一度も、このメルマガの配信が「水曜日の朝6時」
に遅れたことはない。


 毎回、いろいろ重厚なテーマで書いているが、たまには表題のようなテーマ
もいいだろう。

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◆ 本論

********** 第5位 「おともだち」*************************

 私は、「おともだち」という表現を、一度も使ったことがない。
 使うとしても、「ともだち」だ。
 「おともだち」なんて、気色悪くて使いたくない。
 自分が低学年の担任だったとしても、絶対に使わないだろう。

 世の教師は、「みなさん」の代わりにこの言葉を使うことが多い。

「はあい、じゅんびができたおともだちは、手をあげてみてくれるかナ~?」

 こういう使い方、私は絶対にしない。
 なぜ、単に「みなさん」や「人」と言わずに「おともだち」なんて言うの
か。
 どうしても違和感がある。
 私なら、こう言う。
「はい、じゅんびができた人、手をあげてごらんなさい」

 だって、おかしいじゃないか。
 なぜ最初から、「みんな友だちだ」と決め付ける?
 1年生だって、わかっているはずだ。
 ○○太はキライ。○○子はイヤだ。
 そういう相手は、必ずいる。クラスに数人、絶対にいる。
 それが、人間集団の自然なありようだ。

 なのに、教師は、「全員がお友だちだ」と決め付けてかかる。
 「みんな仲良しお友だち」
 私は、こういう思想が気に入らない。
 これは、ある意味でマインドコントロールだ。
 つまり、「友だちとは思えない子をも、友だちと思うべし!」という思想の
押し付けだ。

 私は、3年生の子どもたちによくこう話した。

「先生はね、“みんな仲良く”っていう言葉が嫌いなんです。
 みんな=全員が、ほんとうの意味で完全に仲良くなれるなんてことは、ある
はずがないんです。
 わかるよね?
 だれだって、すごく好きな友達/まあまあ好きな友達/普通の子/ちょっと
嫌いな子/かなりキライな子/というように、いろんな気持ちを持っているは
ずですね。
 そういう気持ちを持っていること自体は、ふつうのことなんです。
 だから、あいつは友だちなんかじゃない、と思うような子がいても、別にい
いんです。
 好きな人、嫌いな人がいるのは、当然です。
 先生にだって、今も、嫌いな人がたくさんいます」

 ただし、さらにこう付け加えた。
「ただし、ただしね。
 せっかくこうして同じクラスになった30人なんだから、できれば仲良くし
た方が、気持ちよくすごせるよね。
 みんなは、考えたことないかもしれないけど、みんなはただ単に、“近くに
住んでいる”という理由だけで、こうして同じクラスに集まっているんです。
知っていましたか。
 不思議だね。
 たまたま同じ年に生まれて、たまたま同じ地域に住んでいたという理由だけ
で、同じ教室に集まっているんです。
 ほんとに、偶然なんだよ。
 もしかしたら、一生出会うことがなかったような人たちが、今、きみたち1
人1人の周りに、座っているんです。
 せっかくの出会いだからね。
 仲良くなれたら、そのほうがいいよね」

「でもね、全員と、いっぺんに仲良くなろうとする必要なんて、ないんだよ。
 先生は、一番の仲良し=“親友”っていうのは、1人いれば十分だと思って
るんだ。
 だから、今、1人でも、仲のいい子がこの中にみつけられるなら、それでい
いんだよ。
 こういう歌があるけどね。
 ♪とっもだっち100人でっきるっかな♪
 100人も友だちがいる人なんて、この世の中、おそらく1人もいません」

 そうは言っても、そのたった1人の友だちをもみつけられない子がいる。
 そういう子に、本当の「友だち」をみつけるチャンスを作ってあげるのは、
教師の仕事の1つである。

 まあなにはともあれ、学校という場は、「小社会」である。
 好きな人も嫌いな人もいる、社会の縮図。
 それを、妙な「理想郷」に見せる幻想の強要だけは、やめてほしい。


********** 第4位 「めあて」*************************

 私は、この言葉も年に1~2回しか使ったことがない。
「めあて」なんて言葉、普通に使うか?

 読者のみなさん。
 ご自分の生活の中で「めあて」という言葉を使う方、挙手願う。
 ほら、ゼロでしょ。

 こんなにも「学校独特」の言い回しは、ないのである。
 なぜ素直に、「目標」と言わないのか。
 1年生にだって、「目標」という言葉を教えれば済むことだ。

 しかしこれは、単に言葉の問題ではない。

 「めあて」という言葉の「かる~い響き」が悪影響してか、とにもかくに
も、授業の最初に「めあて」を決める時間を入れる教師が溢れかえっている。
 決めるのが教師だったら、それはいいことだ。
 しかし、決めるのは子ども。
 しかも、みんなてんでバラバラ。
 多くの教師が、
「個人個人のめあてに向かってがんばりましょう」
 なんてやっているから、手に負えない。

 たとえば、2年生の算数。
A太「ノートをきれいに書きたいです」
B子「九九をちゃんと覚えたいです」
C男「えんぴつをちゃんと持って、算数をがんばります」
D美「数字をていねいに書きます」
E子「寝ないでしっかりやります」
……
 こんな風に、てんでバラバラの「めあて」を、貴重な授業時間(10分くら
い)を費やして、子どもたちに勝手気ままに決めさせる。
 しかも、毎回だ。
 これをやらないと授業にならないと思っている教師が、いかに多いことか!

 学期に1度くらいなら、まあいいだろうが、毎回、めあてを書かせる教師が
あまりにも多い。

 めあて……いや、目標というのは、はなっから教師が決めることなのだ。
 指導目標というのは、学習指導要領にもとづいて作られたカリキュラムにあ
るとおりに、学習内容ごとに決められている。
 それは、当然ながら、教師側が定めるものだ。
 教師が定めた目標を子どもに提示し、今日はここまでがんばるんだよ、と伝
えるのが当然の順序だ。

 それなのに、その目標自体を子どもに決めさせようとする。
 指導目標と「ノートをきれいに」の目標をちゃんと使い分けているなら、ま
だ分かる。
 指導目標を果たした上で、子どもたちが自分の目標をも果たすなら、それは
いいことだ。
 しかし、多くの教師は、指導目標を見失い、子どもが定めたバラバラの目標
がそのままその授業の指導目標だと勘違いしている。

 そういうわけのわからないことをする教師が、学校中に氾濫している。

 これは、「めあて」という「かる~い言葉」が引き起こした珍現象である。


********** 第3位 「詰め込み」*************************

 これは現場でというより世論的によく使われる。
 いわゆる、「詰め込み教育」という、批判の常套句である。

 しかし、私はこの言葉が嫌いだ。
 いかにもわかったような言葉でありながら、非常に抽象的だからだ。

 次の空欄を、明確にかつ即座に埋められる人がどれだけいるか?
「詰め込みとは、(    )を(    )に、詰め込むことである」

 ほら、無理でしょ。
 非常に曖昧にも関わらず、この言葉だけがふわふわと批判の常套句として我
が物顔で泳いでいるのだ。

 あえて書くなら、
( 瑣末な知識 )を、( 脳 )に詰め込むこと……とでもなろうか。

 そう。
 要するに、本来批判されるべき「詰め込み教育」とは、たとえば歴史の年号
を、そのときに起きた事件の内容や歴史的意味をまったく無視して機械的に覚
えさせるようなことを指し示しているのだ。
 それは、「アウトプットする予定がないのにインプットする」という状況。
 使い道の無い知識を頭に入れていくという、そういう過程を「詰め込み」と
呼ぶのなら、許せる。

 それなのに、絶対的に必要不可欠な<読み、書き、算>の力を育てる「基礎
学力育成」の段階をすべてひっくるめて「詰め込み」だと言い張る論者が、後
をたたない。
 勘違いもはなはだしい。

 よろしくないのは、石原都知事などが、そのような「ひっくるめた」使い方
をテレビなどで平気でしていることだ。
 私はあの都知事の言い分はおおかた正しいと思うが、表現が“雑”すぎる。
 都知事のような人が、
「もっと詰め込み教育をすべきなんだ」
などと言ってのけるから、誤解を生むんだ。


********** 第2位 「ふれあい」*************************

 以前も、総合学習の項目で書いたはずだ。
「ふれあい信仰」の教師がはびこる現状を。

 要するに、「子どもと子ども」「子どもと地域の人」などが、
なんとな~~~~~く、楽しそうに、笑顔で、「ふれあって」さえいれば、そ
れで授業が成功したと思い込む教師たちだ。

 こういう単純すぎる教師が、どれだけいることか。

 挙句の果てには、「ふれあい」信仰の校長が、それを学校教育目標として掲
げたりする。
 呆れてものがいえない。


********** 第1位 「子ども主導」*************************

 あるいは、子どもの自主性、子どもの主体性。

 これについては、このメルマガでいやというほど書いてきたから、もうここ
であらためて書かなくてもいいような気もする。

 しかし、あえて1位に挙げておく。

 今の小学校教育が腐敗している最大の原因は、ここにある。

 なんでもかんでも、子どもにすべてやらせようとする。
 なんでもかんでも、子どもが自分でやればいいと思っている。
 なんでもかんでも、子どもが子どもの手で【全部を】成し遂げるべきだと信
じてやまない。

 なんという放任。
 なんという無責任。
 なんという職務放棄。

 いや、私は、子どもの自主性を否定するのではない。
 子どもが自主性を持って自発的に生きていってくれたら、それ以上の理想は
ない。

 しかし、ことはそうは運ばない。
 自主的に生きるためには、相応の「力」がいる。
 自主的にこの世の中の諸問題を乗り越えていくには、相応の「武器」がい
る。

 力と武器の最たるものは、言語技術能力、数理技術能力である。
 要するに、読み書き算である。
 それらがなければ、「自主」も「民主」も、無理なのだ。
 なぜ、そこに気づかないのか。

 このメルマガで何度も同じようなことを書いてきたが、再度書く。

 スキー板を与えて、さあとにかく自由に滑ってみよ、とやった場合と、ボー
ゲンをていねいに教えてから滑らせた場合とでは、当然後者のほうが上達が早
い。
 前者に何か特別な価値があるのかといえば、何も無い。
 確かに、自ら「ボーゲン」を発見したとしたら、それはすごいことだ。
 しかし、そんな発見をできるのは、ほんのひとにぎり、いや、ひとつまみの
人間だけ。
 三平方の定理を発見できる人が限られていたのと同じレベルだ。
 あとの人たちは、みな、挫折する。

 自主性を愛する教師は、挫折した子どもを叱り飛ばす。
 なぜ定理を発見できないのか、と。
 なぜボーゲンを生み出せないのか、と。

 冷蔵庫を発明した人は確かにすごい。
 しかし、その人しか冷蔵庫を使ってはいけないわけではない。
 冷蔵庫の原理を知らなくても、冷蔵庫を利用することができる。

 自動車を創った創始者はすばらしい。
 しかし、自動車の動く原理を知らなくても、自動車を有効に利用して生きて
いる人は無数にいる。

 自主的に地酒を造れない人も、すでに創り上げられた地酒を組み合わせてカ
クテルにすることができる。

 しかし今、日本中の教師は、地酒を創れと子どもたちに命じている。

 しかし、カクテルを創ることだって立派な創造である。
 外山滋比古氏は、著書『知的創造のヒント』の中でそう述べている。

 面積の公式を太字で書いた教科書をしまわせ、それを子どもたちに発見させ
ようとするような「算数の問題解決学習」が、今も9割の教室でまかりとおっ
ている。
 すべては、子どもの自主性という美辞麗句に踊らされた、あわれむべき教師
のなせるわざである。

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◆ あとがき

 たまには、こういう内容もいいだろう。

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