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        》》》 小学校教育が危ない! 《《《

      No.12  2006/6/21  著者:福嶋隆史

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 No.12 腐敗する「総合学習」(1)“講師”を呼んでごまかすな!

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<目次>
◆ まえがき
◆ 本論
(1)“講師”なんて名ばかりの“講師”たち
(2)担任が“講師”じゃ、なぜいけないのか
◆ あとがき
◆ 著者プロフィール
◆ 注
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◆ まえがき

 総合学習(正しくは「総合的な学習の時間」)については、以前から早く書
きたいと思っていた。
 しかし、あまりにも書くべき内容が多すぎるため、怖くて(?)手が出せな
かった感がある。
 全部一気に書いたら、普段の5倍以上の文章量になってしまうだろう。

 でも、そろそろ書きたい。
 そこで、小分けにして書くことにした。
 なるべくなるべく、焦点を絞って。

 論の観点は多様にある。
 総合学習の「授業内容」「授業方法」「研究方法」「今後の課題」等。

 今回は「授業方法」についての問題点を挙げる。

 ズバリ「“講師”を呼んでごまかすな!」である。

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◆ 本論

(1)“講師”なんて名ばかりの“講師”たち

 総合学習の授業でよく見られる光景。
「○○に詳しい地域のお年寄り」が、子どもの前でひたすらしゃべり続ける
姿。

 そのお年寄りは、「講師」とか「先生」とか呼ばれて意気揚々。
「昔はな、このあたり一帯は田んぼでな、カエルが鳴いて、トンボが飛ん
 で、夜にはホタルも出たんじゃよ……ほっほっほ」
(“じゃよ”とは言わんじゃろうけど)

 熱心に耳を傾けている(ように見える)子どもたちを前に、彼は、開始から
終了まで40分ほどしゃべり続けた。(1授業=45分)
 最後の5分で、子どもから質問を受けて終わり。

 これが「授業」と呼べるか?
 大学の「講義」よりも眠くなる「昔話タイム」だ。

◆―――――――――――――――――――――――――――――◆
 むやみに“講師”を招くことの問題点は、3つある。

《1》多くの場合、教師が自分の授業を放棄している点
《2》講師は授業技術を持たないがゆえに授業が混乱する点
《3》多くの教師が、「とにかく地域の人(講師)と子どもたち
   がふれあえればそれだけでいい」と思っており、目的が不明
   である点
◆―――――――――――――――――――――――――――――◆

《1》多くの場合、教師が自分の授業を放棄している点

 ある学校の研究授業では、地域を流れる川についての「調べ学習」をしてい
る4年生が、その川に詳しいお年寄り(要するに、昔からそのあたりに住んで
いて30年前の様子などを知っている人)を「講師」として招待した。
 ある学校の5年生では、「染め物」に詳しいお年寄りが「講師」。
 ある学校の3年生では、「昔遊び」がちょっと上手なお年寄り。
 ……

 勘違いしないでいただきたい。
 私は、老人を呼ぶなと言っているのではない。
 老人の知恵や体験を聞くのは、価値のあることだ。
 子どもの前で楽しそうに話す老人は、別に悪い人たちではない。
 彼らは、悪くない。尊敬すべき人生の先輩だ。

 悪いのは、彼らを授業という場に呼んだ教師だ。
 本来なら自分がすべき授業行為をせず、“講師”を呼んで一切を任せてしま
うその姿勢が、プロとしてあるまじきことだ、と言いたいのだ。
 特に、他の教師が参観する研究授業でそれをやる教師が多いから、あきれ果
てる。自分の授業の腕に自信が無い証拠だ。

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《2》講師は授業技術を持たないがゆえに授業が混乱する点

 自分の授業技術に自信が無い教師ほど、講師を呼びたがる。
 しかしもちろん、「老人に任せれば授業がうまくいく」なんて保証はない。

 悪いが、ほとんどの“講師”には、授業技術がない。
 ゼロに近い。
 まあ、そりゃそうだ。
 教師じゃないんだから。
 教師でさえ日々修練してもわずかずつしか技量を上げられないのだ。

 話の内容をどう絞り込むのか。
 発言が好きでヤンチャな子どもの反応に、どう対応するのか。
 子どもたちに興味を持たせるためにどう工夫するのか。
 時間配分はどうするのか。
 ……そういう技術を、“講師”は持っていない。

 そういう人に授業の場を任せてしまったら、あっちへ行ったりこっちへ来た
りの「昔話」に混乱させられて、子どもたちは「学習」どころではなくなって
しまう。
 要するに、意味不明の授業に終わる。

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《3》多くの教師が、「とにかく地域の人(講師)と子どもたちがふれあえれ
   ばそれだけでいい」と思っており、目的が不明である点

 ここまで書いて、各方面からの反論が耳の奥に聞こえてきた。

●地域の老人との「ふれあい」を否定するのかっ!
●老人が一方的にしゃべったとしても、その熱意を感じ取れればいいじゃない
 かっ! 熱意ある老人との「ふれあい」を通して、子どもが何かを感じ取れ
 ばいいじゃないかっ!

 …などなど。

 こういう議論で必ず出るのが、「ふれあい」という言葉だ。

◇YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY◇
 「ふれあい崇拝」の教師たちよ。
 もうごめんだ! いい加減にしてくれ!!
◇YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY◇

 私は、いつもそう思っていた。

 ふれあえばいい。関わればいい。
 人と人とが、なんとなく、あったかく、ほのぼの、にこにこ、ふれあえば、
総合学習が成立する。
 そう思っている教師、学年主任、総合学習主任、重点研推進委員長、主幹、
教頭、校長、そして教育委員会指導主事。
 みんな、いい加減にしてくれ。目を覚ませ。

 “講師”任せの授業がなぜ許されないのか。
 それは、教師が「何のために講師を呼ぶのか」を明確にしていないからだ。
 つまり、「授業の目的」が不明瞭なのだ。
 国語や算数では、いつも明確にそれが問われる。
 すなわち、「その授業で子どもにどんな力を身につけさせたいのか」。
「物語文の情景描写を対比する力」なのか、「繰り上がりのある2桁の掛け算
の筆算の仕方」なのか。
 
 どんな新米教師でも、「週案」と呼ばれる予定表にそれを必ず書いているだ
ろう。

 ところが、総合学習になるとそれがぼやけてくる。
 ぼやけていてもいい、ということになっている。
 なぜなら、「子どもが授業を主体的に作るから」である、らしい。
 「教師が目的を据えるのはおかしい」らしい。

 目的無き授業は、崩壊する。

「みんなが水を汲んできて調べた○○川の水の汚れ具合は、30年前、20年
 前、10年前でそれぞれどのように変わってきたのでしょう。また、それは
 なぜなのでしょう。そして、これから川を守るために、何ができるのでしょ
 う。この地域にずっとお住まいのお年寄りの方に、お考えを話していただく
 ことにしましょう」
 この程度の目的があれば、なんとか授業は成立する。

(まあ、解決策としては「川にゴミを捨てない」「川を愛する」なんてのしか
 出てこないかもしれない。しかし、教師に「地球環境問題」までを見通した
 見識があれば、水をめぐる次の課題を子どもたちと追求していくことができ
 るようになるだろう。結局、カギを握っているのは教師なのだ)

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(2)担任が“講師”じゃ、なぜいけないのか

 最近の総合学習は、とにもかくにも、「地域」が好きだ。
 環境問題をやるにしても、「地球」はほっといて、「地域」ばっかり扱って
いる。
 3・4年生は社会科が地域学習だからまだいいが、5・6年生でも「地域」
ばかりやっている。
 「学習に一貫性を持たせる」んだとか、なんとか。
 勘違いもはなはだしい。
 今もっとも大切なのは、……

 ……おっと、これは、「内容」についての話だ。
 次回以降にゆずるとしよう。
 今回は「方法」に焦点を絞る。

 話を戻す。
 とにかく「地域」が好きだから、教師たちはひたすら、「地域の誰か」を講
師に招きたがる。

 3年生の総合学習では、社会科の「昔調べ」と連動して「昔遊び」を扱う学
校も多い。
 私もそのような内容を(やむなく)取り入れたことがあった。
(本当は英会話や情報教育をしたかったが、ある経緯でそれに決まった)

 けん玉やカルタなど、昔の遊びを体験しよう、という内容だった。
 そうなると、当然「地域の老人」を呼びたがる教師が出る。
 私は、ある教師から「なぜ講師を呼ばないのか」と聞かれた。
 私は、「呼ぶ必要はないと思いますが」と答えた。

 その理由には、(1)で論じた理由と、それ以前にもう1つの理由があっ
た。

 それは、担任である自分が、その分野での最良の“講師”だったからだ。

 この福嶋は、けん玉指導の“プロ”だ。
 そして、百人一首指導の“プロ”だ。(詳細はホームページを)
 この福嶋を差し置いて、地域の老人にけん玉を教えてもらえと?
 地域の老人にカルタを教えてもらえと??
 おかしなことを言うもんだ。

 その教師は、「講師を呼べば、そこに“ふれあい”が生まれるでしょう?」
とおっしゃった。
 私は答えた。
「“担任教師とのふれあい”では、いけないのですか?
 友だちとのふれあいや教師とのふれあいがあって、その上で、さらに地域の
 人とのふれあいがある。そういう順序だと思いますが」

 その言葉への答えは、よく覚えていない。
 確か、学校教育目標に合わないから、とかなんとか言っていたと思うが。

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◆ あとがき

 NHKの「ようこそ先輩」を見ていても、(1)の《2》の内容を感じること
がよくある。
 つまり、授業が授業として成り立っていないのだ。
 まあ、テレビだから、うまく編集して「成立した」ように見せているが、プ
ロ教師の目はごまかせない。

 たとえ講師が「その道のプロ」でも、「教えるプロ」とは別物だ。
【水泳の金メダリスト=水泳指導のプロ】 ではないわけだ。
 
 しかし今日もまた、「その道にちょっと詳しい講師」を呼んでごまかす授業
が、この日本中できっと、繰り広げられていることだろう。

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