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        》》》 小学校教育が危ない! 《《《

       No.22  2006/8/30  著者:福嶋隆史

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    No.22 「できる子に他の子を教えさせる」という罪悪

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<目次>
◆ まえがき
◆ 本論
◆ あとがき
◆ 著者プロフィール
◆ 注
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◆まえがき

 教師の世界には、「当たり前」とされている行為がたくさんある。
 しかし、その中には、とんでもないものもたくさん含まれている。
 今日は、その中でも、授業中に行われることの多い「ひどい行為(ひどい指
示)」をご紹介する。

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◆本論

 よく、算数でみられる場面。

「○○くん、もう全部できたの? 早いねえ。すごい!
 じゃあ、まだ出来ていないお友だちに教えてあげてくれるかな?」

 こういう指示を出す教師が多い。非常に多い。
 教師用指導書に載っていたりもする。

 しかしこれは、絶対にやってはいけないことである。

 理由は4つ。

★第1に、「教える」のはあくまでも教師の仕事だからである。
 自分の仕事を放棄してはいけない。

★第2に、早い子が教える対象は、多くの場合「できない子」だからである。
 「できない子」への指導は、教師でさえ大変だ。
 「指導のプロ」であるはずの教師でさえ、てこずるような子どもたち。
 そういう子への指導を、たかだかちょっと計算が速いくらいの子に教えさせ
ようだなんて、無理に決まっている。
 そもそも、「計算が速いこと」と、「計算方法をうまく教えられること」と
は、全くの別もの。全く別の技量を必要とすることだ。

 計算に限ったことではない。
 スポーツでもなんでも、同じである。
 その道を極めたオリンピック選手でさえ、指導の技量となるとグンと下がる
ことがある。
 トップレベルのスプリンターだからといって、走るのがきわめて遅い小学生
に「いかにして速く走るか」を順序良く指導できるとは限らない。
 それどころか、教えることに関してはまったくの素人だと言ってもいいかも
しれない。

★第3に、子どもの人間関係をダメにするからである。
 そういう指示を出す教師は、できない子のプライドを考えていない。
 同じクラスの友だち――休み時間などには一緒になって遊んでいるような友
だち――が、算数の時間だけは自分よりも優位に立ち、自分に指導を施そうと
している……
 この状況が、いかに屈辱的であるかを、教師は理解してあげなければならな
い。
 長々とした個別指導は、教師から受ける場合でさえ、大多数の子が嫌がる。
 プライドが傷つくからだ。
 1年生だろうと、6年生だろうと、このような感情が生まれて当然である。

★第4に、できる子はできる子で、「教えたい」なんて、つゆ思っていないか
らである。
 速く計算が終わった子は、「じゃあできてない子に教えてあげよう」なん
て、思っていない。
 そんな面倒なことしてないで、もっと難しい問題をやりたい――そう思って
いるのである。

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「教えさせる派」の教師たちの次のような主張は、もっともらしく聞こえる。

【A】……「教えさせることで、教える子にとっても勉強になるのだ」
【B】……「人に教えることができて、初めて理解したということになる」

 だが、このような考え方は、小学校教育の範囲を逸脱している。
 ちょっと考えれば、分かることである。

 確かに、【A】のように、教えることは勉強になる。
 確かに、【B】のように、教えることによって理解は深まる。

 しかし、だ。

【A】について。
 人に勉強を教えるということがいかに難しいか、教師なら痛いほど分かって
いるはずである。
 ましてや、相手は「できない子」だ。
 「勉強になる」云々を言う以前に、「子どもに子どもを教えさせる」ことが
いかに無理難題であるかを、認識すべきである。
 うまく教えられないことで、逆に不安になってしまう子さえいる。
 「まじめな子」は、えてしてそういう状況に陥りやすい。
 これでは、せっかく早く終わった子の自信を奪うことになり逆効果である。

【B】について。
 すべてについて「理解」を求めることが、そもそもの誤りである。
 算数の公式があったとして、その仕組みを「理解」していなくても、「使
う」「利用する」ことはできる。
 小学校段階の算数で求められるものとは、「公式の仕組みの理解」よりもま
ず、「公式をいかにして利用・活用して問題を解くか」なのである。
 ピタゴラスがようやく発見したような公式の仕組みを、子どもにいちいち理
解させるべきなのか?
 先人がようやく創り上げた技法を、その原理に至るまで子どもが理解しなけ
ればならないのか?
 「ゆとり教育」とやらのせいでただでさえ限られている授業時間数の中で?

 それよりも、先人が遺してくれた「遺産」である公式を活用する技能を漏れ
なく身につけることが、大切なのではないか?

 あなたは、冷蔵庫の仕組みを理解しているか?
 自動車が走る仕組みを理解しているか?
 それらを、人に説明できるか?

 多くの人は、理解してもいないし、説明もできまい。
 だが、理解しておらず、説明できないとしても、あなたは冷蔵庫を上手に活
用しているだろう。
 自動車を活用し、生活を豊かにしているだろう。

 それでいいのである。

 これは、算数に限ったことではない。
 現代の小学校教育は、ここを勘違いしているのである。

 原理や仕組みの「理解」ばかりを求める体質が、「教えさせ信仰」の思想を
呼ぶ。
 早く計算ができたって「原理」を理解していなきゃだめよ、だから、友だち
に教えてみてごらん、自分の「出来なさ」に気づくわよ……みたいな、乱暴な
考え。
 とんでもない勘違いである。

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 では、早く終わった子には何をさせるべきなのか?

 算数なら、次の2つの方法がいい。

●〜〜〜(1)板書させる。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜●

 計算問題・図形問題・文章題を問わず、早く終わった子には、自分のノート
を板書させるのである。
 え? なに?
「そんなことしたら、できてない子が写せちゃうじゃないか」だって?
 何を言っているのだ。
 それで良いではないか!
 いやむしろ、それこそが狙いなのである。

 つまり、早くできた子に正解を板書させれば、まだできていない子はそれを
参考にする(あるいは写す)ことができる。

 「まだできていない子」には、2種類いる。
1)とっかかりが分かれば自力でやれる子。
 そういう子は、できた子が式などを板書する途中で解法に気づき、「あっそ
うか」とつぶやいて、あとは自分でノートに向かう。
2)最後まで、全然できない子。
 こういう子は、写すことから始めさせるのである。
 板書を、そっくりそのまま写させればいいのだ。
 写すのも、大切な勉強である。
 写し、写し、また写し……これを繰り返すうちに、解法の一定の「型」に気
づき、いつのまにか自力でもできるようになっていく。
(そもそも、写すことさえままならない子も多い。そっくりそのまま写せたの
 だとしたら、まずはそれをほめてあげるといい)

 一方、板書している子は、みんなが見ているので、丁寧に書く必要が出てく
る。
 早くできて調子に乗っていた子も、ちょっとした緊張を味わうことになる。

 このような様々な意味で、早くできた子に板書させるということは、非常に
効果があるのだ。

 お気づきの方もいらっしゃると思うが、これは、早くできた子に、間接的に
「教えさせている」ことになる。
 子どもが子どもに直接教えようとすれば相手のプライドが傷つくが、板書に
よってなら、傷つかない。
 子どもが子どもに直接教えようとすればそれは無理難題であるが、早くでき
た子が自分のノートを板書するだけなら、簡単である。

 なお、この方法が使えるのは、算数のみではない。
 国語でも、社会でも、理科でも、何でも応用できる。


●〜〜〜(2)ほかにやることを与える。〜〜〜〜〜〜〜●

 たとえば、早くできた子のための「難問プリント」を用意しておく。
 ただし、難問プリントを与えた場合には、その難問の答え合わせや解法指導
までが必要になってしまうので、時間がかかる。
 だから、あらかじめプリントの裏面にヒントや答えを印刷しておくとよいだ
ろう。

 あるいは、プリントは与えず、単に読書させてもいい。
 これなら、いちいち指導を必要としないし、一斉授業を再開させるときにも
スムースに始められる。

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◆あとがき

 これらの「教えさえ信仰」は、体育、音楽、図工などでも見られる。
 これらは技能教科とも呼ばれ、場合によっては国語や算数以上に指導が難し
い教科である。
 なのに、相変わらず、教えさせている。
 教え合わせている。
 なわとび。跳び箱。水泳。球技……
 そんなもの、子どもが教えられるはずがない。
 もし子どもにも教えられるのであれば、教師なんていらない。

*****

 「教え合い」を「愛」とひっかけて、美的に持ち上げている教師もいる。
 とんでもない勘違い教師である。
 子ども同士に愛させる前に、教師が子どもを愛さなければならない。
 教師が本当に子どもを愛しているのなら、「教え合い」なんてさせない。
 一生懸命、教師が、子どもに、自分の手で、教えてあげるはずである。

 もちろん、子ども同士が相談し合うのはいい。
 子ども同士でチェックし合うのもいい。
 チェックとは、たとえばなわとびの回数を数えるとか、隣の人が教科書を開
いているかを確認するなどの行為である。
 それらは、「教える」こととは違い、対等な立場での行為である。

 また、自然発生的に、ある子が、自分の仲良しの子に対して何かを教えてあ
げようとするような場合には、それを無理に止める必要はない。
 友だちに教えてあげたい、と思うのは、人間の自然な感情である。

 私は、そういうことまでをも「やめよ」と言っているのではない。

 私はあくまでも、「教師」が「子どもと子ども」に対し、【教える←→教え
られる】という立場に立つよう「指示」「強要」してはならない、と言ってい
るのである。

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