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        No.5  2006/5/3  著者:福嶋隆史

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       No.5 国語の授業を放棄する教師〔2〕
         〜「読解」の指導ができない教師〜
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<目次>
◆ まえがき
◆ 本論
(1)「読解力」の定義
(2)多くの教師が犯している「勘違い」
(3)授業の実態 〜『ちいちゃんのかげおくり』の授業〜
(4)「読解力」を育てる国語の授業とは
◆ あとがき
◆ わかる!”業界用語”解説  〜その5【指導と支援】〜
◆ 著者プロフィール
◆ 注
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◆ まえがき

 日本の子どもの「読解力」が落ちているという。
 当たり前だ。
 原因は明白。
 国語の授業で、読解の「方法・技法」をほとんど教えていないからである。
 前回書いたように、国語科は小学校6年間全授業の25%もの授業時間数を
割り当てられているにも関わらず、である。

 もちろん、「読解技能」を身につけさせる授業を意識的に行っている教師も
ちゃんといる。
 しかし、その数はほんのわずかだ。
 1つの小学校の全教師(20〜30人)の中に、1人いるかいないか、ぐら
いの割合である。

 では、他の教師は何をしているのか?
 たとえば物語文の学習では、こんな感じだ。

「音読発表会をしましょう。」
「読んだ内容を、紙芝居にしてみましょう。」
「読んだ内容を、劇にしてみましょう。」
「読んだ感想を、自由に作文にしてみましょう。」

 これらは、なぜ悪い授業だと言えるのか?
 そして「読解力」を身につけさせる良い授業とは、どのような授業なのか?

 これを、今回は考えたい。

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◆ 本論

(1)「読解力」の定義

 その前に……「読解力」とは何だ?
 そう聞かれて、あなたならどう答えるだろうか。
 ……読んで理解する力? まあ、ハズレではない。
 だが、ちょっとぼんやりしている。

 そこで、次の(   )をうめていただきたい。

■読解力とは、文章中に書かれている(a:   )に根拠を置き、分析的にそ
 の文章を読みほぐすために不可欠な(b:   )のことである。

 難しいだろうか。
 a、bとも、漢字2文字の熟語である。それぞれ別の熟語。

 ことわっておくが、上記はあくまでも私の定義である。
 しかし、あながち勝手な定義ではない。
 学習指導要領には、次のように書いてある。

〜〜〜〜指導要領(抜粋)〜〜〜〜
3・4年生
C 読むこと
(1)読むことの能力を育てるため、次の事項について指導する。
  ア (略)
  イ 目的に応じて、中心となる語や文をとらえて段落相互の関係を考え、
    文章を正しく読むこと。
  ウ 場面の移り変わりや情景を、叙述を基に想像しながら読むこと。
 (以下略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 これを見ると、さきほどの問いの答えはだいたい分かる。
 たとえば、このようになる。

■読解力とは、文章中に書かれている(a: 言葉 )に根拠を置き、分析的にそ
 の文章を読みほぐすために不可欠な(b: 技能 )のことである。

 a は「叙述」でもよい。指導要領(抜粋)のウに書いてある。
 b は「能力」でもよい。指導要領(抜粋)の(1)の最初に書いてある。

 な〜んだ、そんな答えか、と思われただろうか。
 しかしここが大切なのだ。

 読解力は、書かれている「言葉(叙述)」に根拠を置くからこそ培われる。
 しかし、多くの教師は、そのような授業をしていない。
 また、多くの教師には、「技能」を育てるという観点がない。
 最初から、ない。
 だから、子どもたちに読解力がつかない。

(ちなみに、読解力の定義はいろいろある。最近よくマスコミでも取り上げら
れている国際学力調査のうちPISAの定義する読解力とは、次の通り。【自
らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加する
ために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力】 これはもちろ
ん正しい定義だと思うが、そんな大それたことを言っていては、らちがあかな
い。われわれは、もっと範囲を限定して議論すべきだ)

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(2)多くの教師が犯している「勘違い」

 読書には2種類ある。

 A……できるだけ、たくさん読む(多読)。
 B……できるだけ、深く読む(精読)。

 学校の国語の授業では、どちらを優先すべきか?

 ・・・・・

 そう、答えはBだ。

 しかし、もちろんAも重要だ。
 だから、どこの学校にも図書室があり、図書の時間が設けられている。
 教科書の厚さを考えてみてほしい。
 あんな薄っぺらい教科書を上下2冊読んだだけで、1年間の読書量として十
分であるはずがない。

 じゃあ、教科書を分厚くすればいいじゃないかって?
 ハリーポッター・シリーズのように分厚くすればいいって??
 それは違う。
 
 なぜなら、教科書とはもともと、精読のために作られている物だからだ。
 教科書に掲載された物語文や説明文というのは、数こそ少ないが、精選され
た名作がほとんどだ(中には違うものもあるが)。
 精選された題材文を精読するためにこそ、教科書が存在する。

 そこを、多くの教師は勘違いしている。
 教科書も、図書室の本も、ごちゃ混ぜにして考えている。
 どちらも、ただの「読み物」だと思っている。
 読んで、味わって、ああ面白かった、ああ泣けた、程度でいいと思ってい
る。

 いやもちろん、読んで、味わって、ああ泣けた、ですっきりと読み終える読
書も大切だ。
 私だって、そういう読書体験の方が遥かに多い。
 しかし、くどいようだが、それは多読の分野だ。
 学校の授業では、多読よりもまず、精読を行うべきなのである。

 こんなふうに書くと、次のような反論も聞こえてくる。
「多読こそが、読解力を育てるんですよ! なに言ってるんですかっ!」

 確かに、「量が質に転換する時期」が、いつかやってくる。
 どんな分野でも、確かにそういうことがある。

 しかし、多読しかさせないのは、野球で「とにかくバットを振れ、素振り千
回! そのうち打てるようになる!」なんてやるのと似たようなものだ。
「下半身の構え方、重心の取り方、動かし方、バットの振り方、タイミングの
取り方」そういう「技能」を放置していくら素振りさせたって、そんな我流で
は優れたバッターは育たない。

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(3)授業の実態 〜『ちいちゃんのかげおくり』の授業〜

 本来なら、文学的文章(物語文等)と説明的文章の両方について論じたいと
ころだが、長くなるので、文学的文章に絞って考えることにする。

 さて、小学3年生の教科書に、『ちいちゃんのかげおくり』という作品があ
る。 
 これは、いわゆる戦争文学。
 1回読めば、誰しもが思わず涙をこぼすような、物語である。

 これを、どう授業するのか。
 A先生(50歳・女性)の授業を見てみよう。

**********

「はい、それでは先生が物語を1回読みます。よく聞いていてくださいね」
 A先生は、最後の場面で涙をこらえながら読んだ。
 涙もろいのだ。
「あれ……先生泣いてるの?」
「ごめんね……先生ちょっと泣いちゃったね。何回も読んだことあるのに」
 つられたのか、目頭をおさえている女子もいる。

 気を取り直し、咳払いをしてA先生が言った。
「では、みなさん。このお話を聞いた感想を、ノートに自由に書いてみましょ
 う」

 さて。
 子どもたちは、どのような感想を書いただろうか。
 7人の子が、書いた感想を発表した。

1…「とても悲しいお話だったと思います」
2…「ちいちゃんが死んでしまったので、さびしい気持ちになりました」
3…「ちいちゃんが死んでしまったのが悲しいと思いました」
4…「むかしは大変だったんだなあ、と思いました」
5…「戦争はよくないと思いました」
6…「家族が死んだら悲しくなるので、戦争はよくないと思います」
7…「悲しくて、つらい気持ちになりました」

 これをどう考えるか?
 このような感想を書き、発表することに、何の意味があるのか?
 みんな、似たようなことしか書いていない。
 戦争文学を読めば、誰だって悲しくなるのは分かっているのに、こんなこと
を改めて言わせることに何の価値があるのか?

 予想がつくだろうが、教室には、「何も書けない子」もたくさんいた。
 A先生は言った。
「書けなかった子は、何も感じなかったのかな? 自分で感じたことが、なに
 かあるでしょう? それとも、先生が読むのを聞いていなかったのかな?」

 そう言われちゃあ、仕方ない。
 書けなかった子は、なんとかして感想を書いた。
 その内容は、……お分かりだろう。
 みな、「悲しかった」「戦争はいけない」のオンパレードである。

***********

 このように、「教師が1回読んだあとに感想を書かせる」というのが、国語
の授業の定番になってしまっている。
 教師の間ではこれを「初発の感想」などと呼んでおり、ほぼ9割以上の教師
がこれをやる。
 教師用指導書に、それを書かせるようにと、書いてあるのである。
 しかし、私は、やらない。
 一度も、やったことがない。
(私は、教師用指導書が大嫌いである。あのとおりやって国語力がつくなん
 て、あり得ない。ちなみに、教師には「教科書を使う義務」はあるが、「教
 師用指導書」を使う義務はない。そこを勘違いしている教師もいる)
 
 極端に書けば、これは「感情の強制」である。
 それに、ただでさえ読めば悲しくなる物語を、演技ではないにしろ教師が涙
声で読み、さあ感想を書けと言われたら、誰だって子どもは「悲しかった」と
書くだろう。
 教師の涙につられて子どもが目頭をおさえるなんて、美しい光景だが、それ
にごまかされてはならない。

 もちろん、感想が多岐にわたる場合もある。
 戦争文学では「悲しい」におさまってしまうが、物語の内容によっては、当
然いろいろな感想が出てくる。
 もともと教師は、それを狙って感想を書かせている。
 なぜなら、次のように展開するのが目的だからだ。

**********

 A先生の、次の授業はこうだった。
「では、みなさん。みなさんの出してくれた感想をもとに、これからどんな授
 業をするか、みんなで考えましょう。どんな風に授業を進めていきたいか
 な? 手を挙げて発表してください」

 つまり、子どもの感想をもとにして授業をつくろう、というのだ。
 一見、かっこいい授業だ。

 私の授業は子ども主体ですよ。自主性を尊重していますよ。
 私は、子どもが発表したいろいろな感想を、大切にしていますよ。
 私は、子どもに「教え込み」をしませんよ。
 私は、「指導」をせず、「支援」をしているんですよ。
 ……そういう「美辞麗句」や「見栄」で授業をやる教師の典型的手法であ
る。
 
 だが、私に言わせれば、これほどに「手抜き」の授業はない!
 授業の進め方を子どもと考える?
 国語で?
 冗談じゃない。
 完全に、指導の「放棄」である。
 教師が、綿密な指導計画を練ってから授業を進めるのが当然だ。
 学習指導要領は、「指導」要領なのだ。「支援」要領じゃない。
 (教師のみなさん。学習指導要領の中に「支援」という言葉は一度も使われ
  ていないという事実を、ご存知だろうか?)

 それはそうと、教師が計画しないで「子ども任せ」でできてしまうんだか
ら、なんとまあ、らくで便利な授業だろうか。

 感想をもとにして授業をつくる?
 どうやって?
 当然、子どもから「授業の進め方」の提案など、ほとんど出ない。
 戦争文学以外の「感想が多岐にわたる物語」であっても、まったく同じだ。
 もし意見が出るとしたら、数人の「気が利く子」からこんな意見が出るだけ
だ。

「先生、私は、このお話をもとにして紙芝居を作ってみたいです」
「先生、僕は、この物語を劇にしてみたいです」
「先生、私は、特に感動した場面を選んで、音読したいです」

 なぜこのような意見が出るのか?
 それは、その子たちがこれまで教わってきたどの先生も、みんなそういう授
業をしてきたからだ。
「物語は、お芝居にするもんだ」
「物語では、音読発表会をするもんだ」
と思い込んでいるわけだ。

 そんな意見を聞いた教師は、我が意を得たり、である。
「ああ、なるほどね。紙芝居や劇にするというのは、面白そうだね」
「みんなが言った、戦争は悲しい、ということが伝わるような紙芝居や劇にで
 きるといいね」
「音読もいいね。ちいちゃん、お兄ちゃん、……と役割を決めて、気持ちを込
 めて読めるといいね」

 これらはいかにも、子どもが出した意見を重視しているように見えるが、そ
うじゃない。
 教師は最初から、紙芝居か劇にさせる・あるいは音読発表させるくらいしか
授業の方法を知らないから、そういう意見が出るのを待っていただけのことな
のである。
 
 そして、さらにこう続ける。
「じゃあ、みんなに聞いてみようか。紙芝居がやりたい人? 劇にしたい人?
 音読したい人?」
 こうして、子どもたちを3〜4つのグループに分ける。
 あとは、好き勝手にやらせるだけである。
 国語力など、つきようもない。

************

 そもそも、物語の中身をまともに理解できていないのに、どうやって紙芝居
や劇にするのか?
 無理難題だ。
 それに、物語を紙芝居に変換するには、次のように高度な能力が必要にな
る。

 1)長い物語全体を、適度な場面数に分割する分析力
 2)どの場面を、どの絵に割り当てるのか考える構成力
 3)「会話文」と「地の文」を読み分ける演技力
 4)イラストをかく描画力
<加えて、グループ作業であるがゆえに以下も必要になる。>
 5)誰が構成をし、誰が役を演じ、誰がナレーターをし、誰がイラストを描
   くのかを分担する話し合いを行うためのコミュニケーション能力
 6)遊んでしまう子や、わがままを言う子を統率できるリーダーシップ

 この1〜6を全部クリアしないと、まともな紙芝居なんてできやしない。
 それを、多くの教師は低学年にでさえもやらせるのだから、呆れる。
 大人でさえ、こんな大作業を成し遂げるのは苦労する。
 6なんて、教師にすら難しい場合がある。

 なにはともあれ、名監督が必要だ。
 教師がそれをするのならまだいいが、実際は無理だ。
 教師は、3〜4つのグループ全部を順々に指導しなければならない。
 あるグループだけにくっついて面倒を見ているわけにはいかない。

 また、4なんて図工科の領域だ。
 国語で時間をたくさん取るなんておかしい。
 しかし、紙芝居作りで最も時間がかかるのは、無論、イラストである。

 ……かくして、大混乱の末に、わけのわからないお芝居が生まれる。
 しかも、それを「1年生に見せてあげよう」などという流れになるのが一般
的だ。
 1年生に何かを「伝える」力をもった紙芝居なんて、そうそう書けるもので
はない。ただの「お絵かき発表会」に終始するに決まっている。

 音読発表は、まだいい。
 やるべきことが子どもにわかりやすいし、学年相応の学習内容だからだ。
 でも、これとて「指導」が入らなければ、小さな声で途切れ途切れに読むだ
けになる。
 このあたりについては、前回のメルマガで論じたとおりである。
 それに、「音読で終了・読解は無し」になるのがみえみえである。

**********

 こうして、物語文の授業の多くは、読解の「ど」の字もやらぬまま、終わっ
てしまうのだ。

 ちなみに、ほんの少しだけまともな授業では、こういうのもある。
「みなさん、悲しいお話だったと言いましたね。では、どこを読んで悲しいと
 思ったのか、場面を1つだけ選んで、ノートに写してごらんなさい」
 書き写すという作業は、単純に見えて奥が深い。
 視写こそ、究極の国語学習だ。
 しかし、悲しいと思った場面をクラスの子がバラバラに書いて発表しただけ
では、読解力はつかない。
 「悲しさの確認」で終わるだけである。

 こういうのもある。
「第一場面のちいちゃんの気持ちと、第三場面のちいちゃんの気持ちは、それ
 ぞれどんな気持ちですか」
 紙芝居オンリーよりは、わずかにマシだが、これも到底読解力はつけられな
い。
 第一場面は楽しい気持ち。
 第三場面は悲しい気持ち。
 答えは、こんな程度である。
 こういう「気持ち」オンパレードの授業では、読解力はつかない。
 それに、こういう授業は、子どもたちの知的好奇心を沸き立たせない、つま
らない授業である。

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(4)「読解力」を育てる国語の授業とは

 私は、『ちいちゃんのかげおくり』をこう授業した。

**********

「では、みなさん。先生が1回読みますから、教科書の文章を目で追いなが
 ら、よく聞きなさい。目で追えないなら、鉛筆の先で追いなさい」
「途中でわからない言葉が出てきたら、さっと線を引いておきなさい。あとで
 辞書で調べます」

 そう言っておき、読み始める。
 無駄に感情を込めず、どちらかというと淡々と読む。
 読みながら、子どもたちが本当についてきているか、子どもたちの様子を確
かめる。
 ぼーっとしている子には、近づいていき、教科書の今読んでいる箇所を指差
してあげる。
 線をひいている子がいたら、途中でちょっと読むのをやめて、小さな声で
(ただし周囲に聞こえるように)ほめる。
「ああ、○○さん、先生が言ったとおりに、意味がわからない言葉に線を引い
 ているね。すばらしい」
「しかも、引き方がすばやいね」
 それを聞いて、まだやっていなかった10人くらいの子はさっと姿勢を正
し、自分もやってみよう、と鉛筆を持ち始める。

**********

 そうして一読し終えたら、まず段落番号を振らせる。
 教科書に番号を書かせる。
「段落」は既に習ったことである。
 しかし、分からなければ友達と相談してもよいことにする。
 正しく振ることができたか、教科書を持ってこさせ、間違えやすい箇所のみ
を1人1秒でチェックする。
 全員の教科書をチェックする。

「では、今日は○段落〜○段落を音読します。教科書を持って全員起立」
 最初なので、教師のあとに続けて一文ずつ読ませる。
 あとのバリエーションは、前回のメルマガに書いたとおりである。

 まずはこのように、音読の授業をしつこく行う。
 少なくとも、最初の3〜4回の授業では、音読、語彙調べ、漢字のみであ
る。
 言葉の意味については、
「これは文脈から意味を考えさせる、これは辞書で調べさせた上で比較させ
 る、これは文中の他の言葉に置き換えさせる」
などと、いくつもの方法を準備しておき、定着させる。

 やることはたくさんある。
 悠長に、感想の発表なんてしてる場合じゃない。

 このような基本的指導が終わった上で、ようやく「解釈(読解)」の授業に
入る。

***********

 私は、次のような発問を投げかけた。
 もし3年生の教科書をお持ちの方は、読みながら考えてみていただきたい。
 ★は発問、(  )は正解である。
 これらを、ときには発表させ、ときにはノートに書いて持ってこさせ、とき
には黒板に書かせ、ときには討論させながら、授業するのである。


1★ちいちゃんは、ずっと生きていたのですか。
(ちがう)

2★そうでないことが「はっきりと」書かれている一文を、抜き出しなさい。
(夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が、空に消えました。)

3★ちいちゃんが死んでしまったのは、第何場面ですか。
(第四場面)

4★ちいちゃんが死んでしまった「瞬間」が描かれている一文を、抜き出しな
  さい。
(そのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりま
 した。)

5★それ以前はまだちいちゃんが生きている、ということが分かる言葉を、抜
  き出しなさい。
(1:ひどくのどがかわいています)
(2:足をふみしめて立ち上がると)
(3:たったひとつのかげぼうしを見つめながら)など。

6★どうして、その言葉が生きている証拠になるのですか。理由を書きなさ
い。
(1:ひどくのどがかわいています)→死んでいたら喉はかわかないから。
(2:足をふみしめて立ち上がると)→死んでいたら足をふみしめられないか
                  ら。
(3:たったひとつのかげぼうしを見つめながら)
    →もし死んでしまっていたら、自分のかげぼうしも見えないはずだか
     ら。(その場合は、第四場面の後半のように、天国のような描き方
     になっているはずだから。)

7★○ページのセリフは、本当に、お父さんとお母さんがちいちゃんのそばで
  しゃべったのですか。(詳細は略)
(ちがう)

8★では、その理由は、教科書のどこを見るとわかりますか。
(○ページの○行目にまったく同じセリフがあって、この幻の声を聞いたんだ
 ということがわかるから)(詳細は略)

9★第一場面(生きているとき)と第四場面(死んで天国にいるとき)を比べ
  ると、どちらが、ちいちゃんにとって「より楽しい」「より幸せ」だとい
  えますか。そう考える理由も書きなさい。
<これは、作品の主題に結びつく重要な問いである。>
<この問いは、クラス全員での自由討論で考察した。>
(第四場面の方が幸せだったと考える)<←逆の答えもありうる。>
(戦争のあった時代は、「生きているときが不幸」だった。
 それが、自分が死んでからはようやく、先に死んでしまった家族に出会えて
 幸せになれたのだから、「死んでからの方が幸せ」だった。
 だから、第四場面の方が幸せだったと考えられる。
 でも、現代は、その逆である。現代は、「生きているときが幸せ」で、「死
 んでしまったら不幸」というのが自然である。このように、時代が変わる
 と、人の幸福の価値観も変わることがあるのだ。)

(このような文章を3年生が書くのは難しい。そこで、「表」にしてまとめた
 のだが、ここでは割愛する)

 この『ちいちゃんのかげおくり』というお話は、ちいちゃんがどこまでがん
ばって生き抜き、どこで力尽きて死んでしまったのか、そのような場面の変化
を読み取ることが重要だ。
 それを授業で扱わないと、いつのまにか死んでしまって可哀想、で終わって
しまう。
 それを扱っていればこそ、9の発問のような高度な分析を行うことも可能に
なるのである。

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◆ あとがき

 向山洋一氏は言う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 授業によって深まるのは、「感動」ではない。(中略)
 逆に、〔読めば読むほど〕ほとんどの子は、感動が弱まっていくだろう。
 深まるのは、「感動」ではなく、「解釈」なのである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<『向山型国語教え方教室』No.031 P.7より引用>
<〔  〕は福嶋の注釈>

 ここに、今回の内容のすべてが込められている。

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◆ わかる!”業界用語”解説

 〜 その5【指導と支援】 〜

 多くの教師は、「支援」という言葉が好きだ。
「あくまでも、教師が子どもをリードするのではなく、陰で支えているだけな
 んですよ」
という謙虚さを売っている。
 しかし私は、「支援」という言葉のうさんくささに、鼻をつまみたくなる。
 そういう言葉が好きな教師は、最後には、指導どころか「理不尽な命令」を
下し子どもを困らせることになる。

 次のどちらがよいか? 一目瞭然だ。

1) 自転車の乗り方(技術)を「指導」する。
   → 子どもはその結果、自由に乗りこなせるようになる(技能の習
     得)。
   さあ、あとは自由にどこへでも行ってごらん。
   どこへ行くかについては、相談に乗るよ(支援)。

2) 自転車の乗り方(技術)は、苦労して自分で見つけてごらん、先生
   は見守っているよ(支援という名の放任)。
   → 子どもは、乗りこなせるようにならない(技能の未習得)。
   なぜ乗れないんだ!
   もっとよく考えろ! 練習が足りない! 宿題だ!(理不尽な命令)

 教師はもっと堂々と、「指導」こそ仕事だ、と言えばいいのだ。
 少なくとも、学校教育は「積極教育」の部類だ。
 ルソーの「エミール」みたいな「消極教育」の類ではない。

**********

 ことわっておくが……
 私は、これでも、『灰谷健次郎の保育園日記』という本が好きな男である。
 真逆のようだが。(ご興味ある方は本屋さんへ)

 私はあくまでも、学校教育のあるべき姿について、語っているだけである。

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