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        No.4  2006/4/26  著者:福嶋隆史

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       No.4 国語の授業を放棄する教師〔1〕
      ~音読の「指導」も「評価」も放棄する教師~
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<目次>
◆ まえがき【「国語」は全授業の何%?】

◆ 本論
(1)「私、国語の授業って苦手なのよね」
(2) 音読の「指導」も「評価」も放棄する教師

◆ あとがき

◆ わかる!”業界用語”解説
    ~その3【評価と評定】~
    ~その4【絶対評価と相対評価】~

◆ 著者プロフィール
◆ 注
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◆ まえがき

 みなさん、小学校6年間でいったい何時間の授業を行うかご存知だろうか?
(通常、学校の授業で「1時間」とは実際の45分を意味するが、ここでは便
宜上、45分を「1時間」と表現する)

 答えは、5367時間である。
(これは、学習指導要領で各学年ごとに定められている「最低限実施しなけれ
ばならない時間数」の合計である(平成15年一部改正版の学習指導要領で計
算))

 さて、このうち、国語に割り当てられた時間は、いったいどれほどだろう
か。
 選んでみてほしい。

A……約5%(268時間)
B……約15%(805時間)
C……約25%(1377時間)

 小学校の授業には、科目がたくさんある。

国語/算数/理科/社会/生活/総合/体育/音楽/図工/家庭/道徳
さらに、特別活動
 〔学級活動/クラブ/委員会活動/児童会活動/○○式(始業式、終業式な
  ど)/遠足/宿泊体験/防災訓練/健康診断等々〕

 これだけあるのだから、国語にはあまり時間をかけられていないのでは……
と、お思いだろうか。
 否。
 答えは、Cの25%である。
 なんと、6年間全授業のうち、4分の1以上を国語に充てよ、と定められて
いることになるのである。

 これは、すばらしいことだ。
 国語こそ、何より優先的に教育されなければならないと私は確信している。
(詳しくは下記HPに述べている)
http://www16.ocn.ne.jp/~wildcard/06-mysite-kokugo.html

 しかし!
 ちょっと待って。
 ちょっと考えてみてほしい。
 もし、この全授業の25%に当たる授業が「ひどい授業」だったら?
 教師が何も指導しない、「放任授業」だったら?
 「活動主義」の美辞麗句に先導された、「お遊び授業」だったら?
 そう考えると、ぞっとしないだろうか。

 その、ぞっとする授業が、今の日本の小学校国語授業の主流なのである。
 ほとんどの教師は、そういう国語授業を行っている。
 私はそれを、この目で見てきた。
 そして、私だけでなく、先見の明がある教師はみな、各種教育雑誌や研究会
の場でその腐敗の事実を訴え、改善策を発表している。
 しかし、簡単には変わらない。

 これは、まさに、日本を揺るがす、教育問題の根幹だと言ってもいい。
 今回は、その現状のほんの一部を、ご紹介する。

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◆ 本論

(1)「私、国語の授業って苦手なのよね」

 ほとんどの小学校教師は「国語」という教科の指導の仕方を知らない。
 ほとんどの教師は「教師用指導書」だけを頼りに、そこに書いてある「お遊
びのような指導法」を正しいと信じ、わけの分からない授業を展開している。
 授業が終わると、「あれでよかったのかしらねえ」なんて笑っている。

「私、国語の授業って苦手なのよね」
などと、教職歴10年、20年の教師が平気で言ってのける。
 じゃあ、あなたは、全授業の4分の1が苦手だと言うわけか?
 それを、10年、20年と続けてきたわけか?
 そういうことになる。

 こんな教師もいる。
 子どもたちが、なにをしてよいかわからず、つまらなそうな表情をしている
授業を参観して、
「子どもがすごく悩んでいたでしょ? これこそ、子ども主体のすばらしい授
 業なのよ」
などとおっしゃる、完全にベクトルが反対に向いている教師。

 これはもう、放任というより、放棄である。
 国語という授業の放棄。
 そして、授業という行為の放棄。

 そのような放棄の実態を、今回と次回とで2回に分け、ご紹介する。
 今回は、「音読」をめぐる実態。
 次回は、「読解指導」をめぐる実態。

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(2) 音読の「指導」も「評価」も放棄する教師

 これをお読みの方々の中には、わが子の「音読」の宿題につきあった経験を
お持ちの方も多いことだろう。
 2年生なら「スイミー」 
 3年生なら「モチモチの木」
 4年生なら「ごんぎつね」……などなど。

 わが子がそれを読むのを聞いてやり、
 お決まりの「音読カード」に、親が◎、○、△をつけたりする、あの宿題
だ。
 中には、「読む速さ」「読む正確さ」など、観点が細かく分けられている
カードもある。

 これを、丁寧にやってあげる親は、立派だ。
 私は、そういう親を尊敬する。
 いやみではなく、それこそ親の鑑(かがみ)だと思う。
 
 しかし多くの親は、内心こう思う。
「まったく……めんどくさいわね。こんな◎とか△とか、そんなの先生がつけ
 てくれりゃあいいじゃない? 毎回毎回……。困るのよね。」
 そう思った親を、福嶋は軽蔑する、とお思いだろうか?
 否。この考えもまた、尊敬する。
 これは、きわめて妥当な批判なのだ。

 ◎とか△とか、そういった「音読の出来具合の評価・評定」は、教師こそが
行うべきことだからだ。
 もちろん、授業の中で、である。
 これを、親に任せてしまっている教師は、授業行為の一部を放棄しているこ
とになる。

 教師こそが、一定の同じ基準で、子どもの音読を評定できる。
 ところが、親が評定するとなると、親はわが子が可愛いから、読み方が下手
でも◎をつけるかもしれない。
 逆に、厳しい親は、可愛いからこそ…と思い、上手な読み方でも△をつける
かもしれない。
 つまり、親によって基準がバラバラなのだ。
 そんなバラバラな基準で評価・評定された「音読カード」を、教師は教室で
回収し、結果を鵜呑みにしてしまう。ひどい場合、それをそのまま通知表に反
映させてしまう。

 教師は、授業で教科書の物語文や説明文を扱うときは、毎回の授業で一定の
時間(授業のたびに10分ほど)をきっちりと音読に割り当てるべきである。
 単に読ませるのではない。
 バリエーションをつけ、変化をつけて読ませるのだ。

 全員で、教師のあとに一斉に読む。
 教師と交互に読む。
 男女交互に一文ごとに読む。
 交互に段落ごとに読む。
 セリフごとに役割を決めて読む。
 隣同士で読む。班ごとに読む。
 覚えるまで読む。
 とにかく速く読む。あるいはゆっくり読む。
 感情を込めて読む。感情を込めないで読む。
 大きな声で読む。かすかな声で読む。
 範囲を決めて、繰り返し読む。

 これだけの指示を出せるのは、教師だけである。
 意図的な授業行為の中でしか、できないのである。
 音読指導は、家庭に任せることではない。
 責任をもって、教師が授業すべきことなのだ。
(もちろん、家庭で自主的にやるのは、大いに結構だが)

 私自身はこれまで、音読カードというものを一度も使ったことがない。
 読んだ回数の記録は、教科書に○を10個書き、それを赤鉛筆で塗っていく
という方法で行った。(これは、向山型指導法である。)
 それ以外に、カードなどは一切使わなかった。

 しかし、バリエーションをつけた音読授業は何度も行った。
 (無論、読解指導は音読のあとでちゃんと行っている)

 そのような音読指導を行った上で、学期に1度ほど「音読テスト」を行い、
全員を個別に評定した。
 その作品のテーマに関わる重要な文、しかも読みつまずきやすい文を一箇所
だけ選んでおき、そこを、1人ずつ立って読ませるのだ。
 全員に、同じひとつの文を、1人ずつ読ませる。
 当然子どもは緊張する。
 緊張するからこそ、読み方が向上するのである。
 クラスのみんなが聞いている中で、たった1人での音読テスト。
 私は、その場で採点し点数を発表する。
 読み間違えた回数をもとに点を引く。
 逆に、読みの速さ、正確さ、声量などによって加点する。
 10点満点だ。

 もちろん、読むのが苦手な子や、不安が先行する子もいる。
 そういう子は、わざと後回しにしてあげる。
 どのくらいの声、どのくらいの速さで読めばいいのか。
 他の子の音読を聞いているうちに、それが、苦手な子にもわかってくるから
だ。

 そして、このテストは必ず2回行う。
 1回目は、あえて点数を低くしておく。
 どんなにうまい子にも、最初は10点は絶対につけない。
 また、読むのが苦手な子だからといって甘くつけることもない。1回目は。
 
 2回目には、たいてい甘くつける。
 ただし、良いところを必ず見つけ、そこをほめ、「だからこそこれだけ点数
が上がったんだよ」と全員が納得いくように評価する。
「ああ、すばらしい! さっきよりずっと大きい声になったね。2点増えて、
 9点!」
「お見事! 一度もつまずかずに読めたね。1点増えて、8点!」
 1回目よりも点数が上がるたびに、拍手が起きる。

 こんな評価もすることがある。
「いいねえ。さっきより真剣に、集中して読めたね。これからもその真剣さで
 がんばれ。だから8点あげたいんだけど、1回だけつまずいたね。だから、
 7.9点!」

 この子は、普段集中力に欠け、学力も低位の子。1回目は4点だった。
 2回目も本当は6点程度なのだが、そこは激励の意味でアップさせる。
 しかし、先生甘いじゃん、という批判は起きない。
 その子が、どれだけいつも集中力に欠けているか知っているだけに、その努
力を評価してあげたいという気持ちが、他の友だちにも沸き起こるからだ。
 急に点数が上がり、周囲から拍手が起き、本人も照れ笑い。
 照れ笑いのあとの自信ありげな表情が、なんともいえない。

 点数をつけるからこそ、どんなヤンチャな子でも真剣にやろうという意欲が
湧くのだ。
(点数をつけることで、子どもの間に差別意識が生まれるとお思いだろうか?
 それは大人の杞憂だ。子どもたちは、もっと淡々としている。むしろよいラ
イバル意識が生まれ、切磋琢磨するようになる。)

*****

 このように、音読ひとつとっても、教師の行為によって子どもの力はぐんぐ
ん伸びる。
 音読を宿題だけで済まさせ、評価・評定を親任せにしている教師は、指導と
評価を放棄しているのみならず、そのような子どもの成長の場を奪っていると
も言える。

 念のため書くが、私は、自主的に自宅で音読してきた子はおおいにほめた。
「やれ」と言われないのに進んで音読し、○を赤でたくさん塗ってきた子。
 そういう子には、授業が始まったときに「何個塗れましたか」とあえて全員
の前でたずねる。
 そして、「すごい、すばらしい! やる気があるねえ」と大げさにほめる。
 それで終わりである。
 すると翌日には、僕も読みました、私も読みました、という大合唱になる。
 自宅での音読は、それで十分である。

*****

 ちなみに、漢字指導もまったく同じである。
 漢字の指導を教室でほとんど行わず、ドリルを好き勝手にやらせ、その多く
を宿題にしている教師がいる。これは、音読以上に、許されない事態である。

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◆ あとがき

 自分が授業を放棄しているにも関わらず、音読の宿題をやってこなかった子
を叱り飛ばす教師が多い。
 音読程度の宿題をやってこないのはなぜだ、というわけだ。
 しかしそれは、読める子にとっては楽勝でも、読めない子にとってはキツイ
宿題なのだ。
 文章を音読できない子は、まず、漢字が読めない。
 いや、ひらがなやカタカナが読めない子も多い。
 そして、語彙が少ない。
 ゆえに、一文字一文字を、言葉と言う「かたまり」で捉えられない。
 一文字一文字を、カタツムリが葉の上をたどるように読み、30文字程度の
文を声を出して読み終えるのに30秒から1分かかる子もいる。
 そのような子に、「なぜ宿題やってこなかったんだ!」と怒鳴る。
 冗談じゃない。
 私はその教師に、「お前は、なぜ授業で教えないんだ!」と怒鳴りたい。

*****

 次回は、お待ちかね(?)、昨今叫ばれている「読解力低下」についてだ。
 読解力低下、なんて言うが、そもそも「読解」を教えていないのである。
 その実態を、次回ご紹介する。

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◆ わかる!”業界用語”解説

 ~ その3【評価と評定】 ~

 評価……「すばらしい!」「よくできた!」「まあまあだ」「もう一歩」

 評定……「90点!」「A!」「B」「10点中6点」

 広義に捉えれば、評定も評価の一部だが、評定というのは特に「数値による
明確な評価」のことを指す。
 今の学校教育に不足しているのは、この「評定」なのである。


 ~ その4【絶対評価と相対評価】 ~

 これらの言葉には馴染みはあるが、意味はよく知らない。
 そういう方が多いだろうと思う。
 現場の教師の中にさえ、この言葉の意味を知らない人がいるから呆れる。

 分かりやすく、「子どもが3人だけのクラス」を考えてほしい。
 花子は、100点中、100点を取った。
 一郎は、100点中、95点を取った。
 健太は、100点中、90点を取った。

 これを、相対評価で評定すると、
  花子……A
  一郎……B
  健太……C
 となる。
 塾などで導入されている偏差値は、相対評価である。
 要するに、他人と(相対的に)比較する評価、である。

 これを、絶対評価で評定すると、
  花子……A
  一郎……A
  健太……A
 となる。
 現在の公立学校では、すべてこの絶対評価が導入されている。
 要するに、一定の達成基準をもとにして(絶対的に)評価するのが、これで
ある。
 たとえば、64点以下はC、65~84点はB、85点以上がA、などと。
 ちなみに、先ほど書いた音読テストも、この絶対評価の一種である。

 相対評価では、どんなに点数が高くても、順位がクラス最下位なら評定も最
下位になる。
 つまり、必ずABCが一定の割合で生ずる。
 しかし、絶対評価を行うと、理論的にはクラス全員がAになってもおかしく
ない。

 どちらがよいのだろうか。
 私は、基本的には絶対評価を用いるべきだが、あえて競わせる場面では相対
評価を用いればいい、と考えている。

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